youngangelのブログ

まだ生きてるずっと生きてる

情けねえな。

 わたしは昔から親やその親(つまり祖父や祖母)に嫌な気持ちをさせられてきた。でも自分の人生で後悔をしたくなかった。後悔をしたら、捻くれて捻じ曲がって、彼ら彼女らと同じになってしまうと思ったからだ。ある意味、反逆、逆襲、という言葉がぴったりなのかもしれない。

 その一つの、反逆の方法が、親孝行(仮)だったのだ。自分でもうまく言い表せないけど、わたしは一人暮らしをしてからしぶとくなったような気がしていて、だからこそ、自分がしたいことをまっすぐにすることができている。前よりも、生きることが苦しくない。生きることが苦しくても、死にたいとはあまり思わない。本当に死ぬとしたら、もう仕事に疲れたサラリーマンのように、突然堅い文章をツイートして死ぬのだろう。そんな感じがしている。

 だから、今回は、成人式に出ようと思ったのだ。もちろん、昔の知り合いに会うことも目的だった。人生はいくつかの分岐で出来ているとわたしは思っていて、その分岐点に意味を持たせることは、自分自身が生きていく意味になるのではないかと思った。

 でもこの成人式に出るまでの準備が大変で、親に一応相談しても「自分でやりな、知らないよ俺は。」の一点張り。自分で振袖を借りるお金もない。諦めていたのだけれど、わたしのことを嫌っていたであろう、離婚した父親の方の祖母が、「じゃあこっちでなんとかしてみるよ。」と言ってくれたのである。この手のひら返しに、わたしは大混乱した。本来であれば、「ありがとう、おばあちゃん。」の一言で済む話なのに、過去にいろいろありすぎたせいで、何も飲み込めない。

 そんなわたしは、冬休み、馬鹿みたいに働いていた。たぶん最後の4連勤がトドメを刺したのだろう。連勤最後の出勤日、壁に貼ってあるシフトを見ながら、(ああもう私、今日来たらもう来れないんだろうな。)と、ずっと考えていた。実際そうなるわけだが、私の体も、よく耐えたなと思う。

 情けなえなとは、私がコロナに罹って、成人式に出れなかったことを、振袖を準備してくれた祖母に言った時に言われた言葉である。悔しかった。わたしはこんなにも、自分の幸せのために行動しているのに、それを分かりもしない他人に言われたのが悔しかった。

離婚した父親にも、成人式に出るということを伝えていて、母親にも、成人式に出ると言って、    私がいままでされたことを考えたら、これらの行動が、どんなに勇気があるものかは、たぶん、同じような経験がある人にしか分からない。なんでそんなに悔しいと思うのか、こっちだって、すぐ分かられたら困る。この長く複雑に絡まったタコ糸をすぐに解ける人がいるなら、この無理難題に挑戦してほしい。

わたしこれだけ頑張ったんだからこの先少しくらいいいことがあるに決まってる

 この前、カウンセラーの先生とお話しした。その人は、年齢的にはわたしの3倍以上長く生きている人で、私と話すと楽しいって言ってくれる。(ちなみに、こういう「評価」をすることは良くないんだけどね。って言われた。)

 その人にわたしは、「今までこれだけ生き抜くための努力をしたんだから、わたしが幸せになれないわけがない。死んで逃げるより、生きて、その幸せを味わわないともったいない。」ってことを言ったの。そしたら、先生は下を向いて、手に持ったバインダーを眺め始めた。最近のカウンセリングでは、そのバインダーに挟まれた紙に、何も書かれることはなくて、一対一でひたすら対話している。だから、その持て余されたバインダーが主役になったみたいで嬉しかった。

 下を向いた後、「わたしはこの歳まで生きてて思うけれどね、やっぱり、そうだと思うのよ。」と。つまりは、共感の言葉をもらった。もらっただけで本当かは分からない。

 わたしは幸せになる気がしている。今までとんでもなく苦しかったし、今も苦しくなる時がある。死んだら楽だと思う。薬飲んでラリっちゃえば、リスカすれば、痛みを痛みで誤魔化せば、永久機関になっちゃえば、いつかボロボロになって死ぬので、そうやって死にたいと思ってた。それが綺麗な死に方だって思ってた。

 今は違う。虐め方を変えたから、リスカするより何倍も、勉強する方が大変だから、勉強が大変じゃなくなったら、また、痛みや快楽の方に逃げようと思う。それまでは。

もう友人はいない

 不在着信に懐かしい名前があった。それは、私からすると祖母の名前だ。祖母からすると私は孫だが、そんなに深い関係じゃない。

 祖母はいつも大事なことを話してくれない。というか一家全員がそんな感じだ。話してくれれば良かったのにということをため込む。それを知る方法は、彼女とたくさん会話して、ふと言葉が出てくるのを待つしかない。聞いても教えてくれないとは、なかなか厄介だ。

 昔の私の家庭環境はあまり良くなかった。だから、友人と呼べる人がいなかった。小さい時からずっと私の悲しい気持ちを聞いてくれる人はいなかった。

 でも、私は独りじゃなかった。なぜなら、友人は家にいたからだ。もっと詳しく言うと、人ではない。動物だ。

 産業動物である友人は、売ってしまえばお金になる。生きたお金。だから私はずっと売らないで、とただをこねていた。運良く、彼女は繁殖する側に選ばれ、その瞬間から、10年の命は確約された。死ななければの話だが。

 そんな友人もついに売られてしまったという。悲しくなった。なぜなら、つらい話を聞いてくれた友人がもういないのだから。

 動物だから私たちより寿命が短いのは分かっていたけれど、まだ生きているのにお別れしなくちゃいけないだなんて、死んであの世で会うよりもむごい別れ方だと思う。人間の恋人とか友人とかのそれとは訳が違う。私の親より私の気持ちを知ってくれているのだ。言葉を理解していなくても、同じ時間を共有して、時には元気にさせてくれた。彼女がいてくれたから、私はただの動物好きとして育つことが出来たし、動物を信じることが出来た。彼女のおかげで、小学生の時、作文ですごい賞がとれて、文を書くことが好きになった。こうして今、動物のことを学んでいるのも、彼女たちのおかげである。

 何も自信がなかった私を間接的にこんな風にしてくれたのだ。感謝しかない。食べ物としてではなく、友人として私を生かしてくれた。

 そんな友人は、もういない。

浅野いにお展

浅野いにお展に行ってきた。

入口の写真が上手く撮れていなかった。

 

繁華街のようなところを抜けて、閑静な住宅街を歩いて、いろんな人と景色をみた。

マップに表示されている通りに行こうとすると上手く行けなかった。

行き止まりに案内された時、「俺はまだ行き詰まってねーよ!」とスマホを怒鳴りつけそうになった。

 

市民文化会館は広いとはいえなかった。だけど、そのこじんまりとした感じが世界観と合っていた気がする。どのコーナーをみても、むにゃむにゃした気持ちが空間全体に溜まっているようだった。

 

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この写真を撮った時、隣に女の子がいた。眼鏡をかけているけどスタイルが良くて、漫画の中に登場しそうな雰囲気だった。

すごく好きになってしまった。話しかけようか迷ったけれどやめた。何をしても許される場所ではない。私の存在自体も、ここでは、観客という立ち振る舞い以外、許されてはいない。

悲しかった。目の前の原画とか、正直どうでもよかった。いやよくないのだけれど。

 

せっかく来たのだから、なにか買おうと思って、アクリルキーホルダーを買った。もうそんなに数は多くなかったけれど、2つ選んだ。

 

どろどろとした気持ちを、砂浜の上でぶちまけた後に、またそれをかき集めて持ち帰る。そんな気持ちだ。

ただ、普段よりは、スッとしている。気がする。

2022-12-24

2023年2月8日

起き上がり小法師が目の前にある。

これは高校の卒業式の日、保健室の先生にもらったものだ。その先生は今、出産をして、子育てをしている真っ最中だろう。なぜなら、卒業式の日は、その先生の出産予定日が近く、別の先生がビデオ通話で、お別れの挨拶をさせてくれたからだ。

起き上がり小法師をもらった時、私は学校に行けていなかったのにも関わらず、推薦で大学に受かり、高校を卒業した自分を責めていた。何一つ、本当の気持ちで行動できなかった自分を気持ち悪いと思っていた。

人を信じることがとても怖い。善意の気持ちも手紙も今までかけられた言葉も、きっと全部いつかは嘘になると思っていたし、今もそう思ってしまっている。悪い子だ。

「世界」と「拒絶」はずっとイコールの関係だった。それは多分、親のせいだと思う。

酒、タバコ、不倫、家族の喧嘩、裁判、果てには夜逃げなど、私は家族の揉め事に巻き込まれ、いろんな経験をした。そんな親からかけられる言葉はいつも冷たかった。されることはいつでも丁寧じゃなかった。

取り繕うことが唯一の生きていく方法で、どこにも居場所なんてない。だれにも気を許さない。見せかけの笑顔に大人たちは、「いい子だね。」と言ってくれる。ちょっと頑張るだけで、ちょっと人に選択肢を譲るだけで、「真面目だね。」「えらいね。」「すごいね。」「頭いいんだね。」もう聞き飽きた。

家庭が全ての元凶なんだから、ここを壊せばいい。そう思ったのは小学生の時で、私は行動に移したけれど壊れなかった。というか、もともと壊れていたから、私の少しの攻撃でどうにかなるものでもなかった。呆れるほど狂っていたから、どうしようもなかった。

もちろん修復したいとも思った。だけど、親の喧嘩の途中に、私がかける言葉なんて1ミリも本人たちには届かなくて、自分の言葉がもっと信じられなくなった。

私の本当の居場所はどこなんだろう、と思い始めたのは中学生になった頃。捨てられそうになって、私は泣いて、そしてはじめて、私は今いる場所が、いてはいけないところだと思った。

家出しようとして、枕ひとつ持って家を飛び出したこともあった。「邪魔だ」って面と向かって言われて悲しくなったこともあった。包丁が怖くてたまらなくなった。いじめられてることはずっと隠してた。勝手に物を取られても、仕方ないで済ませるような人間になっていた。

そうするうちにいつしか、息を殺して生きることが平穏につながるという思い込みを無くせなくなった。

 

もちろん、もっとつらい人はいるに決まってる。私はそれでも帰る家はあったし、親と呼べる人はいた。でも、帰りたい家じゃなかったし、親という単語を涙無しに口に出せるようになったのは、つい最近のことだ。

だからずっと、なんとなく、いつもどこかに穴が空いている。それを適当に埋めようとしてしまったらおしまいだから、ギリギリのところでなんとか耐える。

私がもし、親に1度でも好きとかありがとうとか、えらいねとかがんばったねとか、よしよしとか、すごいね!とか、そういう言葉をかけられていたら、きっと穴ができたとしても、もしくは穴に落ちそうになっても、そういう言葉たちが蓋をしてくれるんだろうと思う。

でも自分にはそういう言葉がないから、1から自分で見つけて、自分に分からせてあげないといけない。

幸いなことに、わたしの周りにはとても情緒的な人がいる。昔のまま、人を信じられずにいたら、きっとそれは死へと繋がっていたと思う。だから、ありがとうって気持ちでいっぱいだ。

 

何も信じていなかった頃の自分がかけられた言葉を思い出して、ちょっとでも心をあったかくして、

そういう言葉が私を生かしてくれているはずだって、

今は少しだけ信じられる心があるから、手放さないようにずっと掴んでて、

いつまでも信じないままでいたらだめなんだからね!って、委員長の私が怒る。

言葉をずっと拒絶していたから、もう何年も、あたたかさなんか忘れていて、もらったことがあんまりないから思い出すこともできなくて、

だからずっと苦しかった。

2月11日

わたしがうごくちゃんを知ったきっかけは、あまりいいものとは言えない。

高2の冬、わたしはとてつもない希死念慮に襲われていた。学校に登校してる間は、どこの建物なら飛び降りれるか、どの高さなら死ねるかをずっと考えていたし、授業中はずっと、自分が木で首を吊っている映像が頭に浮かんでは消え、浮かんでは消え、問題が解けない自分を責め、ずっと泣いていたように思う。下校時にも、行きとは違う景色を眺めて、雪が積もる夜道を歩きながら、死ねる場所ばかり探していた。

そんなある日のことだ。わたしの目に、うごくちゃんの訃報のニュースが飛び込んできたのは。

最初は興味本位でクリックしただけだった。記事を読むと、どうやら有名な実況者の「うごくちゃん」という人が死んでしまったらしい。巷では、自殺だと噂されていて、それを悔やむ人がたくさんいた。

わたしがその時死にたくなければ、うごくちゃんを知ることは永遠になかっただろう。だけど、その出来事があまりにもタイムリーすぎて、「うごくちゃん」という実況者がとても気になった。

家に帰って、その日のうちに、うごくちゃんが投稿していた動画を見た。正直、下ネタをこんなに可愛い声で言う人がいるということに驚きを隠せなかった。なぜなら、その時のわたしは、優等生真面目いいこちゃんのキャラで生きていたから。周りにそんなに下ネタを言う人がいなかったということもある。

でもなぜか、うごくちゃんの動画を見ていると安心した。なぜか好きになって、当時ヴィレヴァンで販売されてたぬいぐるみをすぐ買うほど好きになった。あとから考えてみたら、これはかなり不謹慎なことだと思うが、そのぬいぐるみは今やわたしの宝物だ。

これほどわたしが虜になったのは、うごくちゃんの魅力そのものであると感じる。

わたしは、優等生真面目いいこちゃんキャラで過ごしていたけれど、死にたくて、何も信じられなくて、当時の生活を振り返るとボロボロだった。

学校に行きたくない日の朝は、太ももにとにかく傷を入れまくる。傷がたくさん出来たのを見て、わたしは頑張れるという気になれた。学校に行ったら、家にあった風邪薬を1錠だけ飲む。ODという言葉を知らなかったけれどやっていたこの行為は、わたしを安心させてくれる1つの儀式みたいなものだった。学校から帰ってきたら、制服から着替えもせずすぐ部屋で首を吊り(死ぬ気はあんまりない)、やろうと思えばいつでも死ねるんだという気持ちを途切れさせないようにしていた。そうじゃないと、明日が頑張れなかったし学校も頑張れなかった。そして、疲れて、気付いたら寝ているのである。ほぼ気絶。

そんな生活を1ヶ月くらいしていたから、わたしのメンタルも体もボロボロだった。

だからうごくちゃんという存在は、とてもすごくて、まるで、優しく寄り添ってくれる天使に見えた。

これがうごくちゃんとの出会いだ。

わたしはとてもうごくちゃんが好き。どんな経緯があろうと、嫌いになることは絶対にない。

というか、もう嫌いになれないのか。だって、うごくちゃんはお空の上にいるから、

 

書きたいこと書いてたら、1番最後になっちゃった

うごくちゃん、お誕生日おめでとう

今まで何でもなかった日は、誰かの特別な日で、

わたしがそれを祝えること、とても嬉しく思うよ

本当にありがとう

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